富士大沢

吉永 耕一

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富士山には、『八百八沢』といわれるほど、多くの放射谷(沢)がある。その八百八沢の王と呼ばれるのが、西面に位置する、剣が峰大沢である。沢のスケールからすれば、東北面の吉田大沢も、これに匹敵すると考えられる。だが、侵食が止まっている吉田大沢と違って、剣が峰大沢の縁にたてば、始終、落石の土煙が見え、『メリメリ』と岩が崩れる音がする。今なお盛んに原形が変化し、生の侵食をつづけるこの剣が峰大沢は、『大沢崩れ』とよばれる。

富士山の西、天使ヶ岳山麓の田貫湖からみた富士は、立ち上がった斜面に頂上直下よりざっくりとえぐり取られた大沢崩れが印象に残る。遠くから鑑賞する均整のとれたやさしい姿の富士より、じかに触れる厳しい富士には大沢崩れがよく似合う。

頂上直下より標高2200mまでの高度差1500mにおよぶ崩壊部分が、大沢崩れ源頭部とよばれる。その大きさは、長さ2.1キロ、最大幅500m、深さ150m、面積は1平方キロ、谷底の縦断勾配が平均33度、斜面は50から80度におよぶところもある。約1000年前から崩壊が始まったと推定されている。これまでの推定崩壊土砂量は7500万トンにもなる。現在もなお年間20万トンが崩落を続けている*1。

9月11日

新5合(2400m)を後にして、富士の宮登山道にそって新6合、既に小屋閉いをした6合(2604m)と登る。ここから頂上に登る道と別れてブルトーザーの砂礫の道を西へ進む。やや下ったところから岩にかかれた道標に従ってお中道に入る。赤黒い 溶岩砂礫の続く細い踏み跡道をたどって、どんどん進むと前方斜面の向こうに雲におおわれた南アルプスの南端が見えはじめる。小さなナメ状の沢、赤沢などを横切る。富士は放射沢の集まりだ。上部には大小の岩や石が点在し、何時落石があっても不思議では ないと思う。やや登りぎみの道となり、大きなナメ沢、主杖(執杖)流しにでる。ここは見上げると硬い溶岩の続く、主杖流しルートの起点(2700m強)で、直接剣が峰へ登ることができる。頂上の丸い気象観測用のレーダー・ドームが白く輝いている。

行く手上にのびる、建1とかかれた赤いペンキ・マークのコースと別れて、ここからダケカンバやカラマツの樹林帯の下りとなる。どんどん下って小さなナメ沢の鬼ヶ沢ににでる。お中道はさらに樹林帯を下っていくが、きれいなこのナメ沢をつめてみること にする。

緩い傾斜のフリクションがよくきく涸れたナメ沢をのぼる。今日のお中道では、期待していなかった快適な登りだ。途中3mほどの涸滝を乗越そうとすがとどかず、右岸を高巻く。高巻きの崖には動物の足跡がある。カモシカだろう。ナメ沢の上部は、溶岩の ナメと溶岩の砂礫が入り交じっている。200mぐらいは高度を稼いで右岸にはい上がる。

辺りは赤茶色の砂礫と所々に溶岩流がのびる広い斜面だ。上部ほど強い傾斜だ。剣が峰大沢をめざして左斜め上にトラバースを続ける。あの溶岩流を越えれば大沢が見えるかと、何度なく砂礫の斜面の沢を横切り岩岸に乗るが、また、同じ赤茶けた広大な砂礫 の斜面が見える。30度前後の斜面でも、この砂礫のトラバースには結構時間がかかる。足下が崩れたり、硬い所では雪渓のようにキックステップが必要だ。富士登山につきものの杖があれば、どれだけ歩きやすいだろう。上部板上溶岩が崩れれば困るなと少し心 配になるが、なるようにしかならない。

大沢左岸ルートに沿って、大沢の一つ手前の不動沢(浮橋沢)を登っていけば良かったかなと思う。お中道が下りはじめて、どうせまた大沢左岸に沿って登るのなら、だいたい、この辺から登ってもと鬼ヶ沢をつめたのか らいけなかったのか。そもそも、登山マップを忘れてきたのはまずかった。2万5千分の1地形図には、この付近のお中道がかかれていない。沢は分かりずらい。

歩きにくく崩れやすい砂礫の斜面を数歩歩いては立ち止まり、数歩歩いては立ち止まる。お中道の細い踏み跡道でも、そこが水平になっていればなんと歩きやすいことか。などと思いながら、喉もカラカラになり、唇もヒリヒリになり、やっと大沢左岸約29 50m地点に到達。やっとザックをおろして水を飲む。頭上は快晴で、時々白いおなかの飛行機がみえる。2500m辺りから地形性の雲が立上り遠くの景色は見えない。

行動食をとるまえに、3000mまで登って大沢を観察し、写真に撮る。今日横切ってきた沢とは全く比較にならない規模の巨大なえぐれが、左手下方から右手頂上へ続いている。大沢崩れ対岸、右岸の断崖は幾層もの溶岩と火山砂礫(スコリア)が見える。 『ゴロゴロ』と岩が崩れて転がっていく音がする。耳を澄ますと、『メリメリ』と辺りの断崖が崩れていく音がする。思わず少し縁から下がって写真を撮る。大沢源頭部頂上直下には、遠目にももろそうな岩稜、奥壁が見える。夏に登る人はいないが、昭和30 年代から厳冬期の登攀対象になっているという。種々の能力を問われる一大バリエーション・ルートだ。未だ完登されていないルートも多いという*2。夏、大沢崩れに立ってその岩壁を見上げたとき、登攀意欲の盛り上がる人は何人いるだろう。

ここから見上げる剣が峰の測候所は、標高差約800m、距離が圧縮され、呼べは届きそうな距離に見える。溶岩の上を歩いていけばすぐ登れそうだ。頂上直下の板状溶岩の部分の傾斜がきつそうにみえる。板状溶岩にでるあたりがポイントだろう。

下りは不動沢からお中道にでようとして、ガスで沢を間違え、竹沢に入ってしまう。沢を降りると数か所水平に横断する小さな踏み跡にぶつかるが、お中道ではなさそうだ。あまり、下ってしまってお中道を過ぎてしまえばやっかいだ。もう一度登って踏み跡をたよりに強引に樹林帯にはいる。動物の糞がところどころにある。きっとケモノみちだ。しゃくなげの群落の中を泳ぎながら斜めに登って、また砂礫の沢に出る。今度は樹林帯に入るのは止めて沢を登る。崩れやすい砂礫の沢は疲れる。

樹林帯の上をまわりこむと、また、沢らしき景色がガスの中にみえる。ガスの切れ間に、運よくこの砂礫の広い沢を横断するしっかりした踏み跡道が下方にみえた。崩れる火山砂礫の斜面をトラバースして踏み跡道にでる。近くの岩に黄色のマークとサクラ沢という表示がある。正直にほっとする。江戸時代からお中道はあるというが、これを切り開いた先達と、今このお中道を維持している方々のありがたみをかんじながら新5合に帰る。(1993年9月12日記)

      注  *1:『富士山』読売新聞社編、1992
          *2:『富士山』富士宮山岳会

      <記録>
        8:00  新5合発
        9:11  主杖流し着
        9:30  主杖流し発
      10:10  鬼ヶ沢、ナメ沢登り開始
      13:00  剣が峰大沢2950m着
      13:45  剣が峰大沢発
      14:52  竹沢着
      14:58  竹沢発
      16:05  桜沢上部着
      16:15  桜沢上部発
      16:51  主杖流し着
      16:58  主杖流し発
      18:13  新5合着
                                                      以上



Last modified 06/25/98

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